シンポジウム「学力低下への懸念をどう払拭するか」

司   会  山極 隆(玉川大学教授)
パネリスト  寺脇 研(文部科学省大臣官房審議官)
        澤田利夫(東京理科大)
        勝方信一(読売新聞編集委員)

1 現状(分析)と課題(問題点)〜何が起きているか〜

【勝方氏】

1/5日報道。「自由と放縦を混同させるな」「今こそ基礎基本の徹底を」「総合と教科の相補う教育を」

考える力を養う道筋が大事。

ゆとり教育に混在されていた要素

指導要領は最低基準と言いながら、それがクリアに表現されていない。教科書では上限扱いになっているのではないか。

卓越性に焦点を当てる。能力と理解度に応じた学習を進めると、留年や飛び級が問題になってくる。

一律主義が問題。見直す必要がある。

スローガンばかりが飛び交っていたが学力全国調査によって、初めてデータを元に話すことができる。

【山極氏】

今日はスケールの大きな話になることをお断りする。

【澤田氏】

小中学校の基礎基本を、過去データと照合してみた。
計算問題を抜き出して考えてみたところ、子供の力は落ちている。
IMETS142 16〜19ページ

【寺脇氏】

学力低下云々をする段階ではない。
3月までは、国民に不安を与えてはいけないという意識があった。計算問題の力という点では、確かに下がっていると思う。それを認めると一般論としてすべて下がっているという受け取られ方をされることがあるが、下がっているところも上がっているところもある。
理科や数学に関しては下がっているかもしれないが、しかし、英語や社会は変わらないか上がっているかもしれない。
上がる下がるというのは相対的な見方でしかない。。

これまでは、みんな平等という考えで、できないことは差がついたと見る相対的社会だったから習熟度別授業を行えなかった。しかし、習熟度授業は違いを認めること。差という風に呼ぶのは相対的社会の考え方の極みである。

教育は学力を高める行為。1年生で入ったときよりは学力は上がっている。上げない行為をするのはいけない。楽しんだでおわるのは意味がない。何を上げるかを考えるまでもなく、学力を上げるような働きかけをする。学力を上げることが目標。それは自明のこと。

ただし学力と言っても、算数が上がる子もいれば、国語も上がる子もいる。
自宅学習も大事。取り組ませ方も考えるべきである。要は学力を上げればいい。

自分が子供の時、白いノートに2ページ以上書けという宿題がでた。内容は何をしてもよい。学校ではすべての子供に平等に教えるが、宿題ノートは自由。そうすることで取り組む量にも内容にも、違いがでてくる。
そういう違いがあってもいいというのが、今回の最大の転換点。これまでは違いがあってはいけない、という考えだった。

今日、こんな話ができるのは、4月以降新しいステージに入ってきたからだ。これからの道筋がはっきりしてきた。
習熟度別授業ができるような教員配置。一体に応じて、各都道府県、学校に任せることに制度を変えた。子供に違いを認めるなら、先生に違いを認める。力のある人は待遇がよくなるし、ない人は配置転換されるという風に制度が変わってきた。
学校にも、子供にも先生にも違いがあってもいいとみとめるようになった。

これまではカリキュラム先行だったが、これからは学校や教師も変わっていく。
仙台市はすべての学校が2学期制に。
教員の採用やカリキュラムの編成も地域にゆだねられる。

学校の大構造改革。社会の構造改革が行われるのだから、学校も変わる、。大学はすべて民営化という議論。指導要領撤廃の話もでている。終身雇用ではなく地域が満足する先生だけ残してあとは解雇という極論もでている。極端に走らないために、開かれた学校を進めているが、学校の完全自由化議論も進んでいる。

明治の学校は、有名校受験指導を行う学校もあれば、大人数を引き受ける学校のあった。町の経済力に合わせて教員を雇う。学校は本来コミュニティから作られていた。それを本来の形に戻そうと言う形になっただけだ。

硬直化した行政は許されなくなっている。この改革で足りない、間違っていたになると、指導要領はまた変わっていく。すべては国民にさらされて、学校も教員も地域にさらされて、評価されていかざるをえない。

教師は特権階級。終身雇用、転勤拒否、評価されない。そういう職種は今や存在しなくなってきている。

学力を高める。自己満足ではいけない。どう高まったかを学級通信などを通じて公開する。授業をいつでも公開しておくのが一番いい。ライブカメラをおいてネットワークを通してみることもできる。

すべて開放したら1時間だけ見てすべてを評価したりはしない。国民はそこまで愚かではない。巨視的な視点で教育改革を見るべき。

【Q:水越氏】

寺脇氏へ。勝方氏の「第5のポイント最低基準を学習指導要領に示せ」上乗せしてもいいのなら、総則の最初に書いてほしい。今回の改定で最低基準だとどこから読みとればいいのか。

勝方氏へ。「基礎基本」と「ゆとり」。ゆとりとはどういうモノと考えているか。教科選択はどうか、総合的な学習はいつからゆとりになったのか。「カレー」をテーマにした総合的な学習を否定する根拠は何か

澤田氏へ。数と計算の領域ついてしか考えられないのはどうしてか。

【寺脇氏】

昔から最低基準だったと、今になって公式に言っている。、

指導要領には、親のこれだけは身につけてほしいという願いを書いている。これまでは変な同調主義があって、それに屈していた。人と違うことをやめてくれという風潮があった。学習指導要領そのものの性格は変わらない。扱い方が揺れている。昔から1歩も踏み出してはいけないとは言ってなかった。様々な段階で、同調圧力のフィルターがかかっていた。

習熟度別授業ができない段階では、指導要領の逸脱は難しかったが、状況が変化してきた。
指導要領の内容が高すぎたからついてこれなかった。内容を減らしてすべての子供が着いてこられるようにした

【山極氏】

指導要領はすべての子供たちが身につける。、それを越えてもいい。でも子供の負担にならないように。
習熟度別授業の考え方が一般的になってきた。

教科書も最低基準で検定する必要がある。それを確実に完全習得する。能力の高い子供は、プリント等で力を高めていく。

最低基準としての絶対評価。

【澤田氏】

学力を調べる経緯。学力論争にデータがなかった。過去データとまったく同じ問題になっておるモノだけを調査すると、数と計算領域になる。

【勝方氏】

カレーは比喩的な話で、「単に体験したらいい」という考えが現場にあるから、それを指摘した。教員の中には、総合はただ体験するものだ考えていた者がいる。

数学で考え方に時間をかけすぎて、最後までいっていない。国語で話し合いに時間をかけて、考え方に深まりがないという報告があった。教師に聞いてみると「これからは個性の時代だ」と言ってしまう者がいた。そういうことは全国あちらこちらで起こっているのではないか。


【寺脇氏】

自己批判すべきところはする。すべて正しいというのは信用されない。そのときにはこういうわけでこうなったが、間違っていたと認める。場合によっては責任をとる。政策評価制度。

校長室の歴代校長の額を取るか取らないか論争をするべき。地域の人が認めるかどうかで、それをかけるかどうかを決めるべき。

指導主事に褒められるよりも、地域の人が褒める授業をすべき。先輩教師に気をつかうのではなく、地域の人に喜んでもらえることを考えるのが本来の教育であるしこれからの教育。

判断放棄をやめて、自立自浄しない状況を何とかすべき。福祉も土木も金融もすべて自律自浄をめざす方向。これまでは学校任せだったが、地域が学校にかかわりを持つべきである。

校長の権限が強くなるというのは、校長の段階で地域の意見を聞いてそれを反映していくということである。

【澤田氏】

今回の教育改革はかなり大胆。

アメリカは個別学習の失敗だ。と感じている。日本の授業はすべて似ていて、大体同じような力が付く。アメリカは先生次第で、全く当たりはずれができる。日本のシステムがいいとアメリカの先生は感じている。

日本では逆に個別化する学習の流れがでてきている。

公立学校では、一定の学力水準を維持するべきだと考えてきたが、これからはそうでもなさそうなので憂慮している。

【勝方氏】

文部省だけではなく、マスコミもずっと間違ってきた。文部省の理念通り行くのかといい続けていたが、問題をホントにつかんでいたとは言えない。


〈考察〉
シンポジウムでは、寺脇大臣官房審議官のお話が、エキセントリックでありながら、納得のできる内容であった。永野先生が、この度の教育改革の動きを明治維新に、IT化の動きを黒船の来航にたとえていらっしゃるが、その話つながる文部科学省の公式見解という点で、興味深い。文部科学省がついに完全規制緩和スタートの腹を固めたということを強く印象づけられた。
 これまでは、いつ起こるのかな?もうちょっと先?という思いも多少ありだったが、もう、モラトリアムはできまない。きっと動き始めたら早いだろうなぁ。
 学校や教師のシステムなど、教育の仕組みが大きく変わったときに、わたしたちはどこで何をすべきか、見極められるように情報のアンテナを高くしたいなと思った。