石川県免許法認定講習「教師論」レポート

これからの教育と教師

富山市立寒江小学校 笹原克彦*1


1 はじめに

 かつて自分たちが子供だった頃には「学校で学ぶこと」に疑いを持つことはなかった。しかし、今「なぜ学ばなければならないのか」が問題視されるようになってきている。わたしにそう問われるなら「だったら、学ばなくても良いと思うのか」と問い返したい。人間は、本来、何かを知りたい、学びたいという感情を多少なりとも持ち合わせているはずで、その気持ちを満足させるために学びがある。「学ばなければならない」という思いは、「学ばされている」という思いの裏返しなのではないだろうか。
 自らが学びたいことを自らの力で学び取ることことができれば、なぜ学ばなければならないかという問いは生まれなくなる。自分の知りたいことがある人は、自分でどんどん内容や方法を見つけて自分を満たしていけるからである。
 変革する社会の中で大人の意識が変われば、子供たちの意識も変わる。教育改革が進む中、われわれ教師が何を考え、何を留意していくかを見つけるのは難しい時代になっている。以下に、教育改革が起こってきた社会的背景、その中で教育はどう変わっていくことが求められているか、そして教師はどのような力を高めていくべきかについて、順に論じていきたい。


2 教育改革が起こってきた社会的背景

@ 経済成長期の社会と教育

 明治以来、わが国は、欧米諸国を規範とし、それらの国々の文化を吸収することを国是としてきた。経済的にも技術的のも文化的にも、多くの違いがあるそれらの国々からは、吸収すべきことは大量にあった。第2次世界大戦を経てもそれらの状況は変わらず、戦後の高度経済成長期にも、日本はいわゆる先進諸国に追いつくことを目的に、教育水準を上げ、技術や文化を吸収し続けた。ここには、進んだ欧米から学ぶ日本という、「垂直の関係」が成り立っていた。そのように、技術を吸収し大量に良質な製品を生産することが美徳とされる時代おいて教育に求められるのは、均一な教育を受け勤勉で指示通りに勤労する労働者の育成であった。また、教育を受ける者自身も、教育を受けて高い学力(当時はいかに多くの知識を身につけるかが学力の水準であったと想像するが)を身につけることによって、社会的地位や収入が保証されるので、学びのモチベーションを高めることもできた。

A ポスト工業化社会の教育

 しかし、経済の水準が欧米諸国に追いつき、むしろ凌駕するようになると、もはや、日本は欧米から技術、経済、文化を学ぶという立場になくなり、ボーダーレス化した世界の中、対等な関係で同じ土俵に立たざるを得なくなった。経済的な成熟期に入った日本と欧米とは、競争しながら新しい技術・文化を創造するという「水平の関係」に入ったと考えられる。これまで日本の経済発展を支えてきた良質な工業製品の多くが、海外の工場で作られるようになる一方で、欲しい物は何でも手に入るようになった今、物を作って物質的な満足を得る工業化社会の時代は終わりを告げた。これからは、より付加価値の高い製品を開発したり、常に新しい情報を提供したりすることが産業の中心となる。このことから、一生を保証するような知識という物が存在しない変化の激しい時代に入ったと言えるだろう。こういった社会の国際化はパラダイムの変化を生み、終身雇用制、年功序列など従来の日本的な社会システムを変革し始めている。
 こういう社会では、教育においても当然変革が求められる。これまでのように決められた知識を単に伝達するような学習では、常に変化し、創造が必要とされる社会を乗り切れるはずがないからである。国際社会の中で諸外国と対等につきあっていくために、自ら学び、自分の力を高める能力を持った人間の育成が求められるのが時代の要請であると考えられる。
 また、社会の成熟に伴い、物質的な充足感が得られると、これまでのように均質な製品を大量に消費することはなくなり、個人の個性化、多様化が進展するようになった。教育においても、これまでのように、単に均一な知識を大量に注入しても、将来が保証されないことが見え始めている今、これまでと同じ学習のスタイルでは、価値の多様化、個性化には対応できず、もはや子供の学ぶ意欲は高まらないようになっている。
 

3 教育はどう変わるのか

@ 「させられる」から「自分で学ぶ」へ

 これまでのような、単に知識を伝達するような学習では、知識を身につけることへの貪欲さが失われている以上、学習のモチベーションはあがらない。従って、これからの教育では、子供が、いかに主体的に学習に向き合うことができるかが問題になる。
 今回の学習指導要領から実施された総合的な学習は、子供たちが自ら課題を選択し、追究していくことができる点、また、学ぶべき内容が明示されていないという点で、最も主体的に取り組むことができる学習となりうる。ただし、ここで、教師が学習内容を限定してしまったり、子供たちの学習活動を教師主導で進めてしまったりしては、従来の「させられる学習」と何ら変わりなくなってしまう。子供が主体的に学ぶとはどういうことかについて、教師自身が十分に理解することが求められる。
 教科の学習においても「教科書に書かれているから問題を解く」という姿勢ではなく、どういう場面でそういう問題が生まれるかを想定するなど、学習活動に文脈を持たせることが大事だと考える。問題を解く必然性が出てくれば、子供たちの学習は自ずと主体的になると考える。


A 学び方を学ぶ

 主体的な学習では、教師から知識を受け取るだけでは学習は成立しない。教師の側にしても、子供たちの求める内容をすべて把握しておくことは不可能になる。そこで、子供たちが自分自身で追究を続けていけるような学び方を指導しておくことが必要になる。予想の立て方や、解法の説明の仕方、記述の仕方など、多様な調べ方、考え方、表現法を、現実の学習場面に即して意図的に身につけさせるよう手だてを打つことが大切である。その際、インターネットやコンピュータ、液晶プロジェクタなどの新しいメディアを積極的に活用することも、高度なIT社会で生きる子供たちにとっては重要なことである。


B 違いを認める

 これまでの学習には、全員が一つの到達目標を目指し、それに達しなければならないという同調圧力があった。しかし、同じ問題に対しても、速く取り組める子もいればゆっくり取り組む子もいる。速くできる子にはさらに発展的な問題を提供して力を伸ばせばよいし、ゆっくりな子供には、納得できるように少ない問題数で着実に力をつけていけばよい。それは、差別ということではなく、みんな違っているのだから、その違いを認めようということである。一人一人の子供の目的や能力にあった指導を重ねていくことが、子供のモチベーションを高め、主体的な学習を進めていく上では大事なことである。習熟度別学習に対しても、教師自身がこういう意識で臨めば、子供たちの間に差別意識が広がることはない。習熟度別学習に差別意識を感じる子供がいたとしたら、それは、実践する教師自身の差別意識、選別意識の表れだと考える。


4 教師の高めていくべき力とは

@ 教師の専門性を高める

 総合的な学習や教科の学習において、主体的な学習が進められるようになると、そこで必要とされる教師の専門性もまた変化してくる。これまでのように、子供の意識を考えない教師主導の知識伝達型一斉学習では、主体的な学習は、生まれようがない。もちろん、教科としての専門的な知識は必要ではあるが、それにプラスして、子供の意識に沿った授業の進めるための様々な教職としての専門知識が必要となる。子供が主体的に考え、書き、発言するようになるには、どのような教材をどのように投げかけるのがよいのか、この単元で伸ばしたい子供の力は何かといった、子供の立場に立った学習の進め方を構想することが大事である。こういった「教師としての専門性」は、これまで、殊に中等、高等教育では余り議論されてこなかったような印象がある。しかし、学習の連続性を考えると、是非とも会得しておかなければならない技量だと考える。


A 一生学び続けようとする意欲を持つ

 社会の変化が激しくなると、これまで、常識だと思っていた知識は、やがて陳腐化してしまうことがある。また、同じ知識であっても、応用の仕方や解釈が変わってしまうこともある。一方で、高度情報通信社会を迎え、教育の現場にも続々と新しいツールが登場している。これらの変化に対応するためには、教師自身も常に新しい情報を得ようとする気持ちを持つことが重要になってくる。もちろん、昔から伝わっている不易なことには、本質的なこともあるから大事にするべきであるが、一方で、新しい変化にも敏感でいられるよう、教師は常にアンテナを張って学び続けていく必要があると考える。


5 まとめ

 今の教育改革は、単に内容を変えたり、制度を変えたりしようとするものではない。社会の変革に伴い、教育の背景となる考え方そのものを根本的に変えようとするものである。「どうせうまくいかない」とか「元に戻すべきだ」といった様々な批判はあるようだが、変わり始めた社会を元に戻しようがない以上、その中で生きていく子供たちに対する教育の仕方が変わっていくのもまた当然のことである。これまでの教育は、そして自分も含めた教師は、世の中の動きに対して鈍感であったように思う。今こそ、世の中の動きに目を配り、未来に生きる子供たちにつけるべき力は何かを真剣に考え、学ぶ時期に来ていると考える。


[参考文献]
[1]認定講習中の配付資料
[2]鈴木孝夫(1999):「日本人はなぜ英語ができないか」岩波新書
[3]文芸春秋篇(2001):「教育の論点」文芸春秋